結婚式日

エルシイの婚礼の日は終わった。賓客すべて去り、花嫁と花婿も去った。

今日は一九〇五年十月七日みたいな、すっきりした秋日和ではなかったが、すくなくとも夜来の雨は強い風で吹き払われ、天気はあたたかく、不愉快ではなかった。一時、われわれは揃って総領事館へくりこみ、スペーマア領事の前に現われ、ネヴィルと私が証人になって、各種の書類に署名した。それから麹町区役所へ行ったが、ここは米国の法律手続に馴れているので、無数な質問に答えたりする面倒がなくて済む。もっとも花嫁花婿は、彼らの現住所を帝国ホテルとしなくてはならなかったが、帝国ホテルは麹町区内にあるので、区役所の役人はこの作りごとを受理するのである。ところで花嫁花婿は、すんでのことの区役所から直接天国へ急行するところだった。というのが、新聞の写真班が窓かけをいじっていると、窓の上にある大きな思い木造の変な物が、突然有史前の埃をまき上げて、二人の頭を隔てること一吋そこそこのところに落ちたのだった。もちろんわれわれはみんな笑ったが、もし木造物が二人の頭を打ったとしたら、これは笑いごとではなく、思潮というか何というかは知らぬがその男は大いに周章狼狽し、ネヴィルに日本語で「私はまことの無作法でした」とつぶやいた。この儀式が終わって(これには大枚十五銭を要した−米貨三セントである)われわれは総領事館に戻り、ここでスペーマアが法的、即ち宗教によらない結婚に立会い、ライオン氏夫妻は米国の法律による夫婦だという証書を発行した。

三時、宗教的の儀式。四時正式の接待会。これらはアドヴァタイザアのエスモア・クレーンとタイムズのチヨ・ヒロセが申し分なく描写している。私としては花嫁は人々が彼女をかく写し得る最上の程度に美しく、花婿は彼の祖国の名誉であり、花嫁の介添役フェイ・ヴァン・レチターンは大いに貢献するところがあったということ以上につけ加えることは何もない。われわれはエルシイの友達としては六十五人を式に招いただけだったが、接待会には、四百人ばかりのお客がきた。アリスと私は、秩父宮御夫妻に気を配らねばならかった。彼らはちっとも堅苦しくはなかったが、一体皇族、ことに宮廷のいろいろ面倒な規則や習慣にしばられている日本の皇族をもてなすのは、一向に楽なことではない。しかし私は用心よく、前もって計画立てた手順を丹念に書き出し、あらかじめ前田伯爵の手もとに差出して賛意を得ておいた。私は秩父宮御夫妻がお茶を飲まれたテラスへ公使達を案内したが、その後マーラア公使は、一同非常にありがたく思ったといった。

従来日本の作法によると、外国人の家で何か集まりがある時、大使だけが、直系の皇族に話しかけることが許されたのだが、私はカナダ公使マーラアその他の公使連も、秩父宮とお話すべきだと主張して、この至難事を解決したのである。

エルシイとセシルは横浜まで自動車で行き、そこから汽車で富士山麓の御殿場へ行った。樺山伯爵が二人のために別荘を提供してくれたのである。両親は再び日々の仕事にとりかかり、二階の子供部屋が空になっているにもかかわらず、微笑しようと努める。子供部屋は人生で一番大切なものだ。