独立記念日

九時、東方文化学院の開校式に列席し、短い挨拶を述べることになっていたので、朝早く起きた。斎藤以下閣員が二人くることになっていたが、来なかった。

十二時十五分東京倶楽部へ。ここでは米国大使が合衆国大統領の健康を、集まってきた倶楽部員(英国大使リンドレイ、カナダ公使マーラア、ペルシャ公使、林男爵、石井子爵、多数の日本人その他)を前に述べる習慣があり、十二時半、同じことをアメリカン倶楽部で。どちらの倶楽部でも祝賀会は酒場で行われた。ちょっと、どうかと思うが、永いこと遵法されてきた習慣に干渉することはない。

四時半から七時まで、アリスと私とは、いろんな人にたいするアット・ホームを行った。われわれは新聞に通知を出し、外交団のすべてと外務省に、誰でも来て下さいと電話をかけた。もっとも、いずれにしても参上するといってきた人も多数あった。私は礼装し、陸海両武官は制服をつけた。通例、東京の外交使節はそれぞれの国の祭日に、外国人を招待しないものだが、新しい米国大使館は大きいので、アリスと私は先例を開き、これを一種の招待会たらしめんとした。外交団と外務省の人々のほとんど全部と多数の米国人が来て、ほかならぬ斎藤子爵をはじめ、合計三百五十人ほどだった。アリスは大使館邸を美しく飾り、幸いにもいい天気だったので、来賓たちはテレスや芝生を歩き廻ることが出来た。手軽な立食料理とシャンパンとパンチは大食堂にあり、舞踏室ではダンスが行われたが、日本人のオーケストラの指揮者兼ピアニストがやってこなかったために、音楽はあまり上等とはいえず、四人の音楽家は一生懸命にやりはしたが、甚だしく恐縮し、断じて謝礼の金を受け取らなかった。それにもかかわらず、このアット・ホームは非常な成功で、ほとんどすべての人々が中座せず、如何にも楽しそうだった。

その後われわれは、プールと事務所を見下ろすテレスで簡単な食事を出した。アリスは大使館の名を日本語で書き、黄色い色の大きな帆船を描いた日本の提灯を特に注文してつくらせた(私が船を好むので、そのため提灯に船を描かせたとのこと)。テレスには籐椅子と筵と沢山のクッションとを置いたが、大木が上から枝を出しているし、提灯と月の光とだけに照らされたテレスは晩飯には持ってこいの美しい場所だった。晩飯まで残ったのはフランク・マッコイ将軍夫妻と彼の幕僚のドクタア・ブレークスリイとビッデル中尉(マッコイは今朝国際連盟の調査団と一緒に到着し、午前中に私を訪れたのである)デ・ヴォール夫妻、ヂョンソン大佐、マキロイ大佐、ネヴィル夫妻、ミルドレッド・トライスラア、彼女の姉のフォンステン夫人、デューセン・ビュリイ中尉、ワシントン、パーソンズその他の若い人達で、この若い連中はその後エルシイを独立際のダンスに横浜へ案内したが、とてもすばらしかったそうである。

書くのをわすれたが、病気中のリットン卿以外の国際連盟委員は全員私どもの招待会に出席した。即ちクローデル将軍、アルドロヴァンディ、ドクタア・シュネー*1がそれである。ナンシイ・アスタアの子息である若いアスタアは、リットン卿の補佐官を勤めているが、卿がこられぬことを詫び、私がマキロイ大佐を停車場へ差し向けて調査委員会を出迎えたことと、米国大使館が一行の仕事に協力を申出たことに対する謝辞を伝えた。リットンは内臓疾患で随分重態であり、熱は105度(摂氏40.5度)もある。リンドレイはひどく心配している。私はマッコイに私どもはよろこんでマッコイ夫妻の宿をしたいのだが、日本人がどう思うか、少々陪審員にちょっかいを出しているように考えはしまいかと思ってためらっているのだと話した。マッコイも彼が首尾一貫、米国の外交官乃至は領事館の家に泊まることを避けている以上、招待されても応じるわけに行かず、現にこの前東京にきた時も、フォーブスの官邸に宿泊することを断ったといった。

かくの如くにして光栄ある独立祭の日は、まことにふさわしく祝賀されたのである。

*1:ハインリッヒ・シュネー。「満州国」見聞記 リットン調査団同行記 (講談社学術文庫)の著者。日本にきて飲み食いした記述はあったけど、このパーティについてはあったかな。