欧州戦争最中の1941年から終戦後までのチャールズリンドバーグ氏の日記。氏はもと陸軍航空隊に所属した佐官でしたが、除隊して第一アメリカ委員会というところで反戦活動をしていました。米国のみならず、当時の世界的な英雄ですから彼の演説は影響力があったようです。そのためか時の大統領ルーズベルトからは徹底的にパージされてしまいます。1941年に真珠湾攻撃があってから氏は軍隊への復帰を願い出ますが、大統領側から却下されています。このあたりから良くわからないんですが、民間人の立場でオブザーバ的な役目で南太平洋戦線に参加、機銃掃射やらゼロ戦との空中戦、艦船攻撃などかなりの戦闘行為をやっているようです。その後、ドイツ降伏後のドイツへも出張、ドイツ軍機の接収や計器類の調査などにも携わっています。

本書のもっとよむべきところは、第二次世界大戦戦勝国である米国や英国、フランス、ソ連各国の軍隊が行っていた残虐行為について触れられているところ。一部引用してみると

1944年6月21日水曜日
合衆国軍、シェルブールを孤立化させる。ドイツの対英ロケット爆撃が続く。
日本軍兵士殺害に関する将軍の話−数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう二年以上も太平洋地域で戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく−帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。
軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に引き立てられた。
「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ。」
「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方をおしえてやらあ」
偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵の頭部に腕が巻きつき、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた。私がそのやり方に反対し、どうしても捕虜を殺さねばならないのなら疚しくない、蛮行に非ざる方法に訴えるべきだと主張すると、私は悠然たる侮蔑と哀れみの態度に接した。「野郎どもがわれわれにやったことだ。やつらを扱うたった一つの方法さ」

6月26日月曜日
小屋の壁のひとつに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として十ポンド(三十三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二百五十ポンドなら譲ってもよいといった。談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜を取りたがらないのだ」
「*****では二千人くらい捕虜にした。しかし、本部へ引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中はちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。
「たとえば***隊だが、かなり残虐なやり方で切り刻まれている隊員の遺体を発見した。それ以来、連中は日本兵をさほど多く捕虜にしなくなったと考えて間違いない」
話はついで空中戦や落下傘脱出に移る。一座の操縦士は一人残らず、落下傘で降下中の敵のパイロットを撃ち殺しても差し支えないと主張した。もっとも自分ならそんな真似はしたくないと断るものが数名いた。「これも、最初はジャップの方からやりだした。やつらがその手を使いたければ、われわれにだって同じ手が使えるということだ」落下傘にぶら下がったまま、日本軍に撃ち殺されたアメリカ軍パイロットの話がいくつか披露された。

6月28日水曜日
第四百七十五飛行連隊の将校たちと夕食、夜を共に過ごす。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に死者を野郎(サバナビッチ)よばわりしたりすることも意に介さぬ。ある議論の最中に私は意見を述べた。日本兵がなにをしでかそうと、われわれがもし拷問をもって彼らに死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。
「ま、なかにはやつらの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまずやつらを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
後刻、ベッドに入る用意をしていたら、もう一人の将校が戦利品を見せてくれた。ある夜の午前二時ころ、数人の日本兵がキャンプに入ってきた(将校の間で日本兵が食糧を盗みに来たのか、それとも投降に来たのかという点で議論が分かれた)。戦利品を見せてくれたくだんの将校が目を覚まし、そして日本兵を認めるや45口径をつかみ、二人を撃ち殺してしまった。別の将校が三人目を射殺した。
このような行為の為に彼らを非難するつもりはない。(中略)自分が非難したいのは殺害の態度であり、死者の尊厳に対する表敬の完全な欠如なのだ。戦利品はいつものように文字を書き付けた日本の国旗、軍票も混じった数枚の日本紙幣、印鑑、郵便貯金帳、文章や宛名まで書き込んである数枚の葉書、ほかにいくつかの品物と数名の日本兵が写っている一枚の写真などであった。写真には戦利品を奪われた死体の兵士も写っていた−15歳から17歳くらいの少年であった。

8月11日金曜日
(前略)
「たとえば第四十二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」
「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが捕虜一名に付きシドニーへ二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」
「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入ってこなくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ。」
「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南のほうへ送らねばならなくなった時の話を覚えているかね?あるパイロットなど、僕にこういったものだ。捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
「例の日本軍野戦病院を占領したときの話をしってるかね。我が軍が通り抜けた時、生存者は一人も残さなかったそうだ」
「ニップスも、われわれに同じことをやってのけたのだからね」
「オーストラリア軍まかりを責めるわけにはいかない。性器を切り取られたり、ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ」

欧州ではこんなエピソードが。

1945年6月2日土曜日
シュツットガルトへ赴く途中、フランス軍セネガル人部隊の駐屯地を通過した。「フランス軍は彼らにわずかな給料か、あるいは一文も支払っていない。しかし、彼らは好きなように略奪、強姦を行うことが許されている。それが協定の一部なのだ」という。
数日前、フランス軍の占領地域ではあらゆる建物の住民が年齢と氏名を一覧表にしてドアに貼り出すように命ぜられていると聞かされた。つまりフランス軍セネガル人の部隊が夜ともなれば酔っ払った挙句、強姦したい年齢の婦女子にぶつかるまで個別訪問できるようにしたというのである。シュツットガルトの町を通り抜ける時、人が住んでいそうな建物に表戸にはことごとくそのような一覧表が貼り出されているのが認められた−白い紙切れが枠の中にはめ込んであり−一連の氏名と年齢が記載してあった。

日本やドイツは国際軍事裁判で捕虜を虐待したとか、非戦闘員を殺害したとかで何人も処罰されています。もし、こういった裁判がかりそめにも「裁判」であるならば、戦勝国側でのこういった行為も同時に裁かなければいけないでしょう。
でも所詮は「負け犬の遠吠え」なんでしょうね。勝ったほうは何をやってもいいし、負けたほうは何をされても文句はいえないと。