天皇の引見

今日は大変な日だった。人生というのは要するにハードルの連続みたいなもので、実際それらのハードルを飛び越してしまえば、スタートする時考えるほどむずかしくはないのだ。人間の心配の多くは−われわれがそれに負けていると神経衰弱になるような性質の心配のことだが−全然不必要な危惧に基づいている。

10時20分、皇室の鹵簿*1が事務所に着いた。馬車にしても供奉の騎兵隊にしても官邸までくるよりもこのほうが操縦に容易なのである。大使館員は燕尾服に威儀を正し、写真をとって、そして撮影の時の列を崩さずにいた時、式部次長黒田伯爵がわれわれを迎えに来た。土砂降りの最中で御者や騎兵中隊長の帽子の羽根飾りはびっしょり濡れていたが、こんな雨も誕生日のお菓子みたいに派手な鹵簿を、みじめなものにはしなかった。10時35分出発。前駆の騎兵、後駆の騎兵、それに続くのが館員をのせた何台かの馬車。北米合衆国の大使はただ一人堂々と馬車の後席に坐り、彼に向うのが黒田伯爵である。有能なる警察はすべての交通機関を停止させた。そして電車の中なりタキシイの中なり、あるいは往来にいる者の誰かがお辞儀をすると(めったにいなかったが)大使は帽子を上げて答礼するのだった。

われわれが非常に美しい宮城の構内に入ると、近衛兵の一隊が気を付けの姿勢で並んでいて、ラッパを高々と吹き鳴らし、10時50分、一秒の狂いもなく玄関に到着した。式部長官林男爵が出迎えて大きな応接間に案内したが、同男爵は英国大使であった時ローザンヌ会議に出席したことがあり、私はそこで彼に会っている。さて、この応接間には多数の官吏が集っていたが、斎藤子爵もその一人だったことはいうまでもない。やがてアリスとエルシイと大使館の婦人達が着いた。われわれは十分か十五分ほど腰を下ろし、まことに立派な部屋、特にその衝立や漆塗りの扉を眺めて感心した。それから天皇の部屋へ導かれた。扉のところでお辞儀をし、半分ほど進んでお辞儀をし、すぐ前に行った時三度目のお辞儀をするのである。

私は御挨拶の言葉を読み上げた。それは通訳の「外務省のスポークスマン」として有名な例の白鳥*2によって日本語に訳された。白鳥は折にふれて相当勝手なことをしゃべりまくった男である。そこで私は信任状と前大使の召還状とを奉呈し、続いて天皇が調子の高い単調子で、日本語の挨拶状を読み上げられ、白鳥がそれを英語に訳した。それが終わると、儀礼式にいう「握手」があり、天皇は二、三の型通りの質問をされた。私には白鳥のいうことが四分の一しか聞き取れなかったが(白鳥は私が耳の遠いことを知っていたのだが、陛下の前では大きな声を出すことが、どうしても出来なかったのである)出来るだけちゃんとした御返事をしようと努力した。天皇が後ほどまた会おうといわれたので、私は館員を御紹介申上げるお許しを受け、彼らは一人々々部屋に入ってきた。規則通り三度お辞儀をし、あとじさりをしながら再び三度お辞儀をする。ネヴィル、ディックオーヴァ.ターナア、ワシントン、ビンガム、マキロイ、ヂョンソン、ロバーツ、バッツ、ドウド。私自身も、うまい具合にあとじさりに退出し、これで終わった。すべてが時計のようにキチンと、そしておごそかに行われた。

エムペラア・ヒロヒトは若く−31と聞いている−小さな口髭をはやし眼鏡をかけ、話をされる時、心持のいい微笑を浮べられる。彼が軍装でわれわれを引見されたことはいうまでもない。天皇秩父宮高松宮−この三人の兄弟は、非常によく似ている。天皇の謁見が終るや否や、アリス、エルシイ、私の三人は皇后のお部屋に行き、ここでも同じことが行われたが、正式の挨拶状や信任状等の提出がなかったことは勿論である。それから皇后陛下には大使館員とその夫人連とを御紹介した。が皇后はほかのどの女性よりも、魅力的な日本の人形に似ておられ、本当の意味で可愛らしい秩父宮妃殿ほど美しくはないが、非常にいゝ表情を持っておられ、ニコニコと笑っておられた。高木夫人が通訳したが、これまた小声で私にはねっから聞きとれず、幸いアリスが何から何まで私に伝えてくれたからよかったものの、そうでなかったら皇后の御質問に対して、私は何も返事することが出来なかったのである。この人達は早晩、もし私から筋の通った返答を聞こうとするならば、もつと大きな声で話さなくてはならぬことに気がつくだろう。耳が遠いというのは、ひどく厄介なことだが.日本の宮廷では殊にそうである。

さてわれわれはきた時と同じようにして大使館に帰り、黒田伯爵と騎兵隊長と随員諸君とを事務所の私の部屋に招いて、シャンペンをだしたが、これは大急ぎでやる必要があった。というのが、官邸に帰り、モーニングに着換え今度は自分達の自動車で午餐のため宮城へ出発するまでに、たった七分間しかなかったからである。われわれは12時20分宮城に着き、秩父宮両殿下、斎藤子爵夫妻、牧野伯爵*3、林男爵*4、松平伯爵夫妻、その他の人々と立話をしていると両陛下がこられた。私はアリスとエルシイとを天皇に御紹介し、やがて一同は食堂に入った。

午餐は私が想像していたものよりもはるかに手軽だった。勿論静かで堂々たるものではあったが、両陛下はほとんどつづけさまに、また打ちとけて、われわれに話しかけられた。ただ二人とも日本語を話されるので、食卓の向う側にいる人達に通訳してもらわねばならない。一同がすばらしく立派な食堂に入ると、召使いたちはうやうやしく頭を下げ−事実、両陛下の前では誰でも頭を下げるが−しかもその下げ方は欧州の宮廷におけるよりはよほど低く、また下げている時間も相当長い。食卓についた人数は24人か26人だったと思う。秩父宮ご夫妻はテーブルの右側に席を占められた。アリスは天皇の左、内大臣枢密顧問官牧野伯との間に、私は皇后の左に高木夫人との間に坐った。エルシイは二人の式部官にはさまれて席を占めた。

料理も飲物もまことに結構であり、衝立にかくれたオーケストラは静かな音楽を吹奏した。私はこの部屋がすばらしく立派だといったが、大応接間のほうがもっと美しい。というのがこの食堂にはあまり見事でない木細工や、重い感じの帷帳が沢山ありすぎる。だが矮生の松や花を前に置かれた、これこそ本当に豪華な金屏風や、食卓の上の麗美な盛花は、私の目を捕えてはなさなかった。アリスは牧野伯爵と気心がよく合い、また牧野を通じて会話を交えた皇后を、気持のいい、話のしやすい方と思った。牧野はまったく立派な紳士であるが、そういえばこの席につらなった人達は、みな立派な紳士だった。われわれは、当然のことながら牧野と、キャメロン・フォーブスの前任者、ビル・キャッスルについて、いろいろと話し合った。

私は高木夫人を通じてほとんど間断なく皇后とお話した。高木夫人は追い追いと声の調子を上げて行き、私にもよく分るようにしてくれたのである。皇后はあらゆることに興味を持っておられるらしく、私たちの生涯の話、私の旅行、前任地、スポーツの好み、家族のこと、アニタがモラ海から黒海まで、ボスポラスを十九哩泳ぎ切った話など、すこしずつではあるが引きだして、とうとうわれわれについてのほとんど全部の物語を私に話させられた。食後一同は、あちらこちら、小さなグループになった。天皇は白鳥を通じてトルコのことをだいぷん質問され、皇后はアリスとエルシイにいろいろお話になった。ニ時きっちり林男爵が私に近づいたので、われわれは最敬礼をし、これで午餐会は済んだ。

このような儀式がとどこおりなく終わり、信任状の提出なども済ませたのは、よろこぶべきことだろうと思う。私はこんなことには馴れているので前みたいに汗をかいたりしないが、それでもこれは一つのハードルであった。

大使館に帰った私は、外交使節団の全員にだす文書に署名した。ただドイツ大使へのは、文章を変えることを主張した。「われら両使節団の間に常に存在せる友好関係」という文句に記名することは私には出来ないからである。同じ理由で私はスペイン宛の文書も変更した。ネヴィルはついでに英国もどうだと聞いたが、私は、1812年*5には、英国も米国も日本に外交団を送っていなかったじゃないかと答えた。

*1:ろぼ。儀杖を具えた行幸・行啓の行列。公式・略式の別がある。

*2:白鳥敏夫。外交官。当時外務省情報部長。

*3:牧野伸顕氏か?1932年当時内大臣。1935年内大臣退任と同時に伯爵なので別人かもしれぬ。大久保利通の子、麻生太郎外務大臣の曽祖父。

*4:林権助男爵と思われる。福島県出身。外交官

*5:【訳注】第二回の独立戦争といわれる英米戦争があった年