馬の口演説
今度の日米協会でやる演説に、一日ががりで手を入れた。ニュー・ハムプシャの丘陵にかこまれた故郷の家で数週間、静かに思索している時、私はこの演説をやろうと決心し、幸いなことに大統領も国務省もこの考えに賛同してくれた。だが、これは扱いにくい仕事である。草案をつくったのは国務省の極東局で、わたしはそれをワシントンで敷衍*1し、帰りの船の中ではほとんど毎日手を入れた。だが、今や現内閣とその支持者たる平沼と近衛公爵が本心から対米関係の改善を望んでいることが判って見ると、最初の原案のようなものを発表して彼らを困惑させることは非常に近視眼的である。私は人々の群や個人に非公式な話をするほうが、はるかに有益だという確信を持つにいたった。それで私は、中国における日本陸軍の行為にたいする米国政府と国民の憤りを最低度にとどめさすようにすると共に、日本政府を通り越して直接日本国民にいく爆弾や「起訴状」めいたものは出来るだけ避け、シラとケリブディスの間*2を航海しなくてはならぬ。
私はもしワシントン駐在の日本大使がこんなことをしたら、米国政府は大いに怒るだろうということをはっきりと知っている。私の演説に調子が非常に大切である。現在必要なのは要点に触れると、−即ち爆撃、侮辱、商業上の制限その他の米国の権利に対する具体的妨害をやめてくれということである。だが高遠の原理も看過されてはならぬ。大使館員は現在の草稿を読んで、よく釣り合いが取れているといい、私もそう思う。不愉快な若干の反響は起るだろうが、この演説に対して正しく抗議なさるべきことは、実に僅かしかない。まあ、どういうことになるか、見ていよう。幸にして国務省は著しく賢明な電報をよこし、あるいは私が日本で草案のままの演説をすることを不適当と思うような傾向を見出してはいないか、そのことによって私が現にもっている個人的の影響力を傷つけることはよくないと思うが、といってきた。この演説をいいだしたのは私自身なのだが、国務省のこの電報は私をキッとさせた。