日米協会の演説から

英語に「馬の口から一直線に」という慣用句があります*1。何故選ばれたの動物が馬なのか私は知りません。ことに概して馬はあまり口をきかぬにおいておやです。しかしその意味ははっきりしています。今後数ヶ月間私が日本でいわんとするところのものこそ、「馬の口から一直線に」出るもの、換言すれば日本と極東について米国政府と米国民が一般的に考えていることのあるものを、正確に表示し、解釈せんとするものであります。私は国に帰っている間、大統領並びに国務長官と繰り返し会議する特権をもったことも申し上げておきましょう。

今年の五月帰国に先立って、日本の一友人が私に、彼が理解する日米関係を私の米国の友人達に伝えてくれと懇望されました。それは大体以下の如きものでありました。

中国における米国の権益は日本の軍事行動によって、ある種の小さな、重要でない不便を蒙っている。日本軍は米国権益に不便をかけまいとして出来うる限りの用心をしている。米国で発表される、中国における米国の権益を日本が損傷しているという報告は、米国人の反日感情を煽らんとして故意に誇張したものである。米国人が意義を唱えるかかる日本の活動は、大部分が言語習慣の相違と、米国があまりにも法理論的な態度をとることから起っている。日本占領下の中国における米国権益の毀損に対する米国政府の態度は、主として米国内における政治情勢に由来する。近い将来、中国の被占領地域における形勢は、米国が苦情を申し立てる必要がない程度に改善されるだろう。これが私の日本の友人の観点でありました。

悲しい哉、真相はこれとは甚だ遠いものであります。現存する事実はあるがままに、正確に合衆国政府に知られています。同様にして米国民もこれを知っており、日米両国間の将来の利益のために、これらの事実は直面されねばなりません。これらの事実を十二分に考慮することによってのみ、日本に対する米国政府と米国民の現在の態度は了解されます。これらの事実を十二分に考慮することと、これらの事実を変更させる建設的な処置を講ずることによってのみ日米関係は改善されます。しかも日米関係は改善されねばならぬのです。

これだけ申し上げた以上、私は今日細部にわたって米国にあの感情を持ち来した諸原因についてお話することはいたしません。今日は「起訴状」を提起すべき席ではないのであります。これらの事実と、両国間の困難事は、両国政府が考慮すべき事柄であり、事実そのあるものについて私は過去三年間、日本政府と討議してきましたし、引き続き交渉するものであります。だが、私はこれらの事実や困難事の輪郭を、各位はご存知だと思う。これら障碍のあるものは非常に重大です。

さて、私のいうことを聞いておられる皆さんのなかには「盾には両面がある。日本にいるわれわれも世論を考えねばならぬのだ」という方が多いと思います。その通りです。前に申しあげたように、私は米国では日本の見方のいろいろな角度を示すことに全力を尽くしました。日本では米国の見方をお見せすることにつとめましょう。両方の観点を注意深く考察するに非ずんば、よい関係を築き上げることは出来ません。あなた方は私がどれほど日米関係の望ましき結果を熱望し、純客観性によってさらに上首尾な成果に貢献したいと欲しているかを理解して下さいますか。さすれば私に、今日日本に存在すると考えられる、米国の態度についての根本的に間違った認識もあるものを取り去る試みをさせてください。

これら誤謬の一つは、今日この国にひろまっている米国の東亜事情に関する扱い方が、純粋法理論的態度で縛られているということです。「法理論的」態度とは何を意味するのでしょうか。もし条約、公式な言質、国際法の尊重を意味するのならば、しかり、この尊重は、現在も将来も米国の政策の重要な原則の一つであります。しかしこの「法理論的態度」ということは、私が日本でしばしば耳にしたところによると、木に邪魔されて林を見ず、より高くより広き理解に対する人間の洞察力が不合理化される立場を、ほのめかすように思われます。私をして簡単に、現代生活の要求に適応して形づくられた、米国の政策と目標の主要な原則について語らせていただきたい。これらの政策と目標とが、世界事情に対する純粋「法理論的」接近に基礎をおいていることは重要ですが、私のみるところ、遥かにこれを優越しているのであります。

米国民はあらゆる国との平和関係と、すべての国々の間の平和関係を望んでいます。この平和への要望は何も米国民の独占事業ではありませんが、われわれは歴史を通じて、単に戦争と戦争の幕間であるが如き平和は、世界文明がそれに基づいてしっかりと発達し、あるいは維持されることさえ出来ぬ環境であると確信しています。われわれは国際的平和が、米国国務長官が国際取引の「秩序ある処置」と性格づけたものに頼っていると信じるものです。

米国民は他国民の宗主権を尊重し、米国の宗主権も同様に尊重されることを欲しています。われわれは経験によって、国際紛争解決の効果的な取附きは、単に武力行使を控えることよりも、寧ろ即刻あるいは終極的に、武力に訴えるという思想を控えることにあるのを、見出しました。皮肉なる者は周囲を見廻し、国際関係の取り扱いを脅迫的な要請に訴えることがどんな結果をもたらすかを熟慮せよ!すべての人類の共通する純良な本能を、聡明にして実際的なる用途につけることが、あまりにも「純法理論的」でありましょうか?

米国民は、戦争の影響が交戦国にのみ及び得た時代は過ぎ去ったと信じています。国民経済が農業と手工業の上に立っていたころは、各国とも大部分自給自足でありました。つまり主として己が栽培し、あるいは製造した物で生きていたのです。しかし今日はそうではありません。各国はそれ自体が生産せぬ物品を入手し、あまりに多く生産する物品を処分するために、ますます相互に依存しているのです。高度に複雑化された物品交換の制度は、ある国が他国よりも、より能率的に経済的に、ある種の日曜物を土地から抽出し、あるいは製造することが出来るという理由から発達したものであります。それぞれの国がその製作品と自然の恵贈物の結実を、共通なる善のため差し出すのであります。

この交換制度は、単にいたるところの生活水準を高めたばかりではなく、単純な自給自足経済にあっては一人が不自由な思いをして生活していた場所に、二人あるいは三人が楽に暮らし得るようにしました。われわれの進歩した文明の恩典ばかりでなく、われわれの多くの生存そのものが、微妙にバランスされた複雑な世界経済の均衡を保つことに懸かっているのです。戦争はひとり交戦国の人的物的の冨を破壊するに止らず、世界経済の精巧な調整を攪乱します。故に国と国との戦いは、他の総ての国々の利害に関係することなのであります。たんに世界経済の利益のみを目標にしたにせよ、われわれが国際紛争の解決を秩序ある処置によって行わんとし、他国にもこれをすすめることは「法理論的」概念による愚弄でありましょうか。法律と秩序に基礎をおかずして、国際取引におけるこれら各種の概念を安固にすることが、どうして出来ましょう?

米国民は商業上の機会均等ということを信じています。恐らく米国ほどこの原則を時々発動させた国家はありますまい。米国の門戸開放の固執を、「法理論的」な米国の態度の無上な表示だと正確づける日本でさえ、もう一度申しますが、その日本でさえ、中国以外の場所では門戸開放を主張し、その恩恵を受けています。だが中国では門戸開放の原則は、切り縮められ、骨抜きにされた形によるに非ずんば応用されぬと、われわれはいい聞かされているのです。さきほど私が申した高度に複雑な世界経済は、各国が自由競争の条件下で、彼らが好む場所にあって売買する能力を先決要件としているので、先取的権利が特定国の国民のために要求され、主張される場所には存在し得ないのです。

私がただ今申した考えが全世界に適用されるものであることは、申すまでもありますまい。

私がここで言及せざるを得ぬ別の一般的誤謬は、米国政府と米国民が「東亜新秩序」を理解しないという非難であります。私が、この考え方に、礼儀正しく異論を申し立てることをお許し願いたい。米国政府と米国民は「東亜新秩序」がなにを意味するか、それが日本で理解されるのと全く同じく明りょうに理解しております。「東亜新秩序」は日本で公式に安全と強固と進歩の秩序であると定義されました。米国政府と米国民は自分たちのためのみならず、世界中の他のすべての国家のために、安全と強固と進歩の秩序を欲しています。しかし東亜新秩序は他のいろいろなことの中に、中国において永年確立していた諸権利を米国人から奪うらしく見え、米国民はこれに反対しています。

話はこうなのです。米国人がどの程度にまで日本軍が今日中国でやっていることと、彼らの目標と思われることに憤慨しているか、またその憤慨が高まっているか、ご存じない方が多いでしょう。これをいう私は、一瞬たりとも米国民が、日米両国民間の長期にわたる友情を忘れたという意味を述べるものえはありません。しかし米国民はたんに人道主義的な立場ばかりではなく、米国人の生命を奪い、米国人を不具にする事態を伴うところの米国の人命と財産への直接の脅威の点からして、中国における広範囲の爆撃遂行に甚だしく驚愕し、また中国における日本軍が、日米両国、あるいは日本をも含む数カ国が締結した条約や協定を無視して米国の権利を犯し、それに干渉することをも、増大する真剣さをもって眺めているのであります。米国民は、日本が自ら進んでこれらの条約や協定に加わったことと、これらの条約や協定の条項が、すべての利益のために国家の主権と経済的機会均等の相関的原則を保護する、実際的の手配であることを知っています。

経済的機会均等の主義は日本が長期的に、また数多い場合に、日本が明確な賛意を示し、そして日本がしばしば強調したものであります。米国民は彼らから、機会均等と公平な待遇を含む年来確立せられた権利が奪われることを気に病むばかりでなく、東亜における現傾向は、もしこれが続けば、彼らが秩序ある世界に関して誠心抱く希望が破壊されるであろう−と感じています。中国における米国の権益は、中国における日本当局の政策と行動によって危険にさらされ、あるいは破壊されています。米国の財産は損害を受け、あるいは破壊され、米国人は危険にさらされ、あるいは侮辱を受けているのです。もし私が今日、すべての事実を詳細に枚挙するとしたら、各位は何らの疑問もなく、米国の態度の健全さと完全な正当化を御理解になることと思います。また各位は何故私が今日控え目であろうかとするかも御理解になるでしょう。

一言すれば米国民は、彼らが入手する完全に信用すべき証拠の全部に基づいて、アジア大陸の広大な地域で日本の利益になる管理を行い、その地域に閉鎖されたる経済体系を強いようとしる努力が行われつつありと信じる、立派な理由を持っているのです。この思考に加うるに爆撃、侮辱、米国権益に加えられる多様なるかんしょうの結果が、米国民の日本に対する現在の態度を説明します。私として、これを申し上げたい。即ちこれは私の信念であり、また合衆国政府ならびに国民の信念でありますが、日本当局によってなされ、現になされつつある合衆国に有害な事柄の多くは、全く不必要です。われわれは東亜の真の安全と安定は、何ら米国の権益と衝突することなくして得られることと信じています。

以上私は帰国の間に、もっとも注意深く研究し、分析した米国世論を、正確に解釈しようと試みました。日米両国間の伝統的友情というものは、偶然にあるいは故意に損傷すべく、あまりに貴重なものであります。経済、財政、商業、実業、旅行、科学、文化、感情等のあらゆる点から見て、日米両国が永久にお互いを思いやりのある友人であるべきは、必然的なことだと、私は考えます。国家が構成する家族にあって、時に兄弟喧嘩のような論争は起りますが、再三再四合衆国は困難時にある日本を助力しようという実際的な同情心と希望と、日本の業績への尊敬と相互扶助的関係への要望を表明しました。

今日私をしてこの上もなく素直に語らしめた態度を、どうぞ誤解曲解しないでいただきたい。私はまず、米国に対する愛情と米国の利益に心を動かされるものでありますが、同時に日本に対する深い愛情と、両国の根本的且つ永続的な真の利益が、日米間の思想と行動の調和を要求していることを確信し、それによって動かされているのであります。過去七年間あなた方の間に住み、幸福なる接触のうちに育成された私の滞日感情を知る方々は、私の言葉と行動が、真の友人のそれであることを理解して下さるに違いないと思います。

米国から帰った私に、日本に一新聞が、胸中短刀をかくすや鳩を抱くやと質問しました。私はこの質問に答えましょう。私は日米間の友情のために、知力、意力、体力の全部を傾けて働こうという望み以外、何ものをも胸中にかくしてはおりません。

今日私は率直且つ客観的に、或る種の事実について語りました。しかし私はまた、われわれの偉大なる両国間の古い、持続性のある友情のための、同情ある御理解を嘆願しつつあるのです。この混沌たる世界にあって、私は現在と長い将来にわたり、もしそれが維持し得るならば、日本と北米合衆国にただ善きことのみをもたらす関係の安定を、嘆願するものであります。

*1:straight from the horse's mouth.信頼できる確かな筋からの意