ピットマン上院議員、日本を譴責す

ピットマン上院議員が上院で、日本の侵略政策が合衆国にとって危険であるとの激しい演説をしたことについて、国務長官の論評を引用した国務省からの電報を受取った。ハル長官はこの演説に関しては相談を受けておらず、またその起草に何も関与しなかったといっているが、これは当然なことである。国務省からのこのような電報は、われわれが新聞の報道を照合するのに、非常に役に立つ。もちろんピットマン演説は恐ろしく好戦的なもので、米国の新聞は社説でこれをこきおろしたらしいが、もっとも千万なことである。だが、それはそれとして、個人的に、また非公式に、私はこの演説がなされたことをよろこび、その結果は有害よりも有益、換言すればその利益は不利益に勝ると信じる。

米国の観点からすれば、これは米国の大陸海軍予算に反してあげられるであろう平和主義者の叫びを緩和することだろう。日本政府と国民とには、米国は多くの人々がこの国で信じているような平和団体と女の不戦主義者によって支配される国でなく、何度も横面を張られ、それもひどく張られれば、おとなしくその反対側を張られるために差し向けはしないときがくるのだということを、示すようになるだろう。日本人は歴史を忘れ勝ちだと私は思う。歴史は米国人が世界中で最も激しやすい人間の一人だということを示している。一八九八年、ほとんど一晩で燎原の火のように全国を席捲した激怒の波が、政府、国会、一般人の多数の意思と希望に反して対スペイン戦争を引起した事実を、日本人は忘れている。また世界大戦後の米国で、平和論とその活動が盛んに行われてきたので、一九一七年における米国の行動を、忘れられた時代の出来ごとと考えているらしい。だから私は、時々ピットマンがやったような演説が行われることは、すくなくとも日本人に、物を考えるために立ち止まらせる役に立つことは確かだと思う。いや、それ以上、返報の危険なくして極東一般、別して中国における米国の権利と権益とに、ちょっかいを出すことが出来なくなる一線が存在することを理解させる程度にまで浸透するかも知れない。

米国政府の行政府は、最近それがやってきた、不必要な衝突と摩擦を避ける一方、あらゆる場合にその立場を明確に記録するという、著しく賢明な政策を継続する一方、米国の世論は、議会でも新聞でも、米国は極東から退出する意志はいささかも持たず、たとえ日本の東亜における「安定勢力」、換言すれば東亜は日本だけの東亜だという日本式平和論と正面衝突するにしても、米国は東亜における通商、産業その他の権益を絶対に守るのだということを伝えるべきである。われわれは満州で扉が鼻の前でピシャリと閉められることを許した。戦争なしでこれを避けることは出来なかったのかも知れない。われわれは疑いもなく、中国の他の場所でのこれ以上の蚕食も許すことになるだろう。だが、いつか米国民が、ちょっとばかり癇癪を起す時期はくる。そしてその時、これは常にあり得ることだが、軍艦メインの爆破ほど劇的ではないにしても、何らかの事件が起れば、油の塊が一晩で火中に投じられたといってもいいのだ。

私はときたま日本人に、彼らが死火山だと信じているものの中に、まだ火が存在することを知らせるのは、衛生にいいことだと思わざるを得ない。これは彼らの慾の深いプログラムを緩慢化し、米国の外交を幾分補足するだろう。故に私は、本当に腹を立てねばならぬのかも知れないが、ピットマンに対して一向腹が立たない。