日米関係が改善された時

横浜へ行き、恒例の栄誉をもってヒューストン艦上*1に向かえられ、一時間かかってくまなく視察、その後テイラア提督と一緒に、横浜、東京からの多数の来賓を引見した。ヒューストンは見事な軍艦で、清潔なことこの上なく、砲術で二回、通信で一回、選手権を獲得した。だから今年の優勝盾は、両者とも持っている。対空砲と防火部署とは、いうまでもなく完全にかくしてあった。

私はバグレイ大佐に、本艦にやってきた日本の海軍士官たちが、見学を申し出たかと聞いて見たが、そんなことはなかったとのことである。恐らく提督が横須賀を訪れるとき、礼儀として同じことをせねばならぬのを嫌ったのであろう。しかし飛行機が数台上を飛んで、写真をとっていることは認められた。六時、米国国歌が吹奏されて接待会は終わったが、この会で、すくなくとも日本の娘たちは、とても満足していた。エルシイは内田壽満子を彼女のお客として招いたが、壽満子も彼女の母親も、父親が「最近随分いろんなことをさせた」というので、父親即ち内田伯爵の許可を願う勇気をもっていないとのことであった。伯爵夫人はエルシイが直接伯爵に談判することを勧めた。そこでエルシイは、勇気をふるい起こし、外務大臣のペリイ一家への昼餐会のあとで彼にたのんでみた。すると彼は、初めの間はいけないといっていたが、やがてやさしくなり、かくて壽満子は、アリスに附き添われたことはいうまでもないが、愉快な思いをしとてもエルシイに感謝していた。これはちょっと私に、自分の家族が何か願い事をすることを奨励しない、トルコの高官を思い出させた。

日米関係が目立って好転したことにつき、国務省に長文の電報を打った。これには各種の原因がある。その最初にして最大なるものは、主としてインドとの通商条約破棄によって日英関係が極めて面白くない状態に入ったこと。これは日本の綿業の大打撃である。同時に日本は西洋諸国と何ら衝突を起すことなく、国際連盟を脱退する一方、陸軍は要求通りの経費を獲得し、中国における形勢は以前ほど危急ではなくなってきた。もちろん戦争精神は死に失せはしないが、明瞭に吹き込まれたプロパガンダは、ただ今のところ現れていない。

この改善された対米感情は特に以下のことに関する好意的な顕著な新聞論評に出ている。(一)石井子爵のルーズヴェルト大統領との会談。それから大統領が日本の諸問題に関する石井の説明に、同情的に耳を傾けたと一般に信じられていること。米国の新政府がこの前のよりもよほど日本に友好的だという感情がある。(ニ)テイラア提督の訪問が無条件の成功であったこと。昨年テイラア提督が上海で野村提督と友誼的に協力したことは、一般的に感謝されており、同提督は日本でこの上もなく歓迎された。(三)新比島総督マーフィ氏の短い訪問。彼が日本の高官を訪れたことは好感を残した。(四)ペリイ監督の来朝と、特に彼が浦賀にあるペルリ(ペリイ)記念碑を訪れたこと。これは広く宣伝された。(五)皇弟ならびに日本の名士出席のもとに行われた聖ルカ新医療センタアの開館式。

もちろん軍閥が新聞を反米プロパガンダに充満させることを続けて、やがてこの好感情の波をひっくり返す可能性はあるが、私は建設的な、そして多分永続的な進路が開かれたと感じる。白鳥が外務省を出てスエーデン公使に任命されたことは、一層希望を持たせる因子である。ついでだが、白鳥はこの転任に最後まで反対して戦ったと聞いた。

この対米好感は、東京におけるわれわれの私交上にさえ現れている。一例としてヂョンソン大佐は、私に以前この上もなく懇篤だった彼の日本人の親友、特に軍部から外国人をあまり好き過ぎると思われた一人が、昨年、彼と一緒にいるところを人に見られることすら敢えてしなかったといった。ところが過日、ゴルフ倶楽部で、この人と井上子爵とは、すすんでヂョンソンと私が坐っていたテーブルに、ニコニコして最も好意的にやってきたが、こんなことは昨年中、二人が敢えてしなかった動作である。私がこの進歩が起るほど長く東京に滞在したことをよろこび、もしもこの状態が続けば、恐ろしく幸福に感じる。何か予測出来ぬ事件か事態の発展が起って、これをそこなわぬ限り、これは続くだろうと思う。たしかに一年前にくらべて、大きな変化である。

*1:原注:ヒューストンは米国東洋艦隊の旗艦。その規程勤務の一部として日本を訪問したのである。