日米間の友情を祝って

今日は大がかりな祝祭日だった。アリスと私は六時に起き、七時四十五分、横浜で駆逐艦島風に乗った。私は国務省宛、下田まで米国の駆逐艦で行くことにっ反対があるかと問合わせたが、下田は技術的には閉鎖港なので、日本側がそれをいい出せばとにかくだがというわけで、国務省は賛成せず、日本側そんなことはいい出さなかった。だが日本は自国の駆逐艦を出し、出淵、野村提督、樺山伯爵、ローヂャアス夫妻、クレーン夫妻、ディックオーヴア夫妻、グールド夫妻その他日本の名士数名や多数の記者、写真班員を乗せた。これはペリイ提督が日本との条約に署名した八十年記念祭の一番主要なお祝いで、下田は、いわゆる「黒船」が主に碇泊していた場所なのである。

下田まで、時速二十五ノットで走って三時間半かかった。天気はよく、海は穏やかだったが、(これは有難いことで、昨日だったらひどかっただろう)それでも東京湾を出ると相当なうねりがあって、婦人連のある方は青くなり、出淵と樺山は完全にのびてしまった。(これに関して思い出すのは、日本の英字新聞が大真面目でペリイ遠征隊に加わっていて「Pass on の代わりに Pass out した五人の水夫」の墓前で式典が行われると書いたことである)*1しゅっちゅう見えていた富士山は水島のように綺麗で、非常に印象的だった。

小さい港下田は景色のいい所で、こんもり木の茂った岸や小さな可愛らしい島がいくつかある。島の一つはその後ロシアの軍艦が濃霧のためそれにぶつかって難破した時には、あまり可愛らしくなかった。その頃日本はこれを外国貿易の主要港にしようとし、ペリイの条約では下田と函館だけが開港にされたが、その後これが非実際的であることが分かったので、そのかわり横浜が開港になった。

われわれはまず下田港の下田とは別の側にある柿崎に上陸した。ここはタウンゼンド・ハリスが江戸に行くまで四年間玉泉寺という寺に芸者のお吉と一緒に住んだ所である。お吉はハリスを看病し、彼の世話をするために家族や友人をすて、その時は社会的追人と見られ、死んでも一人前の葬式をされなかった女だが、その後一時はあれほど憎まれた異国人に利己心を離れて奉仕したというので、日本人は彼女を聖女みたいに尊敬しはじめた。お吉の記憶は詩や歌になって残っている。もとの玉泉寺はこわれてしまったが、その跡に全く同じものが建ち、住職がわれわれを出迎えて案内したが、私はその人とは数回文通している。

アリスと私とは、まず五人の米国水兵の墓のそれぞれの前で焼香し、それから寺の中にあるタウンゼンド・ハリ自身にお参りをしたが、その趣旨と荘厳さは深くわれわれの心を動かした。霊所の前にしばらくいた後、われわれは玉泉寺に恭々しく保存されているハリスの遺物を見たが、これはハリスの私用品やその後暗殺されたオランダ人の通訳、ヒュースケンの衣服などである。寺院に近いハリスの記念碑は、彼が初めて日本に最初の領事館の旗をかかげた日の日記からとった次の言葉が刻んである。

一八五六年九月四日、木曜日
興奮と蚊のため僅かしか眠らず。後者極めて巨大なり。わが旗竿を建つるため水兵上陸。仕事困難にしてはかどらず。円材倒れ檣頭横桁*2を折るも幸いにいして怪我人なし。ついに本艦より応援を得。旗竿建てられ、人々その周囲に円陣をつくり、この日午後二時三〇分、われ、日本帝国に「最初の領事館」を掲揚す。不吉なる感想−変動の前兆−疑いもなく終わりの初め。敢えて問う−日本の真の幸いなりや。

野村提督は私に「疑いもなく終わりの初め」とは何のことだろうと聞いた。私はハリスがこの日をもって日本の孤立の最後(どうか知ら)だと思ったに違いあるまいといい、なお一番おしまいの「敢えて問う−日本の真の幸のためなりや」は彼が日本の利益を自分の国のそれと同程度に考えていたことを示すのだと答えた。

次にわれわれは下田までの一マイルほどを自動車で行ったが、道の両側には小学校の子供達が
、男の子も女の子も何百人とならび、ほとんど切れ目がなかった。この子供達は遠くは名古屋を含む都会や町村からやってきたので、それぞれ日米両国旗を振りながら声を限りに万歳を叫んだが、その熱誠さは決してしいられたものではない。これまた本当に感動的だった。最後にわれわれは屋外で今日の式が行われる町立小学校に着いた。運動場にはこの日のための神社が建てられ、ペリイとハリスのために神道の儀式が、音楽と数名の神官と例の机の上に積み上げた御供物とによって行われた。邪神は榊の枝を振って追い払い、参加者は聖水で清められ、そこで神主はまじめてもろもろの神の下降を乞い、二人の英雄の魂が安らかに眠ることをわれわれが祈願するのに耳を傾け給えと、羊皮紙から読み上げた。これが終わるわれわれは前に進んで榊の枝を捧げ、最後に神社の小さな扉がとじられてもろもろの神さまはもうお引下りになっていいということをしめした。

さて演説が始まった。この数がまた多かった。県知事、町長、祝賀会委員長、廣田の代理の出淵、樺山、野村提督、有名な江川英龍*3の子孫である山田、私である。雄弁家としてもしられている山田(三良博士)は極めて率直に語り今後二十年間の日米関係は過去八十年よりもよほど重大(危機に瀕していることを暗示した)で、ペリイの条約百年記念祭は今日のこれよりもはるかに意義の深いものになるだろうといった。

演説があまり長くかかったので、別の寺に参詣することと町主催の午餐会とは取りやめになり、三時間半いた後で午後三時、前と同じ歓声をあげる子供たちの前を通り、これまた迎えられた時と同様に、多数の飾り立てた小船に見送られて下田港を離れたが、その一隻は古いトロール船で、外輪その他黒船そっくりにしつらえ、船尾には目立つようにPowhatanと書いてあった。帰りの旅は海も穏やかで気持ちよく、士官室で出された飲物や茶菓をかこんで大いに親睦が行われた。本当に申分のない一日だった。

*1:訳注:「パス・オン」は死ぬこと「パス・アウト」はのびてしまうこと。

*2:しょうとうよこげた。マストのよこ桁のこと。

*3:江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)。韮山代官。西洋流砲術を導入。