何故米国は極東で断固たる態度をとらねばならぬか
ロンドンの海軍会議で合衆国政府と代表とが、日本の非妥協にもかかわらずカッコたる立場をとり、また日本が華府条約廃棄を通告したことは自動的にこの会議が、無制限に停止されたことになると決議して、日本代表を手ぶらで帰国させたことはロンドンでの進展をこちらから見守っていた者にとっては、とくに有難いことである。
私の心にまず浮ぶのは、合衆国が二つの方策に直面しつつあり、また将来も直面するだろうという考えである。その一は極東から手を引く準備をすることである。上品に、ゆっくりと、だが結局効果的に、米国の条約上の権利を廃棄し「開放された門戸」を閉じ、米国に帰属する経済上の権益を解消させ、商業を保護なしに経営して、極東から引下ることである。これ以外の如何なる政策も、いつか日本との戦争の危険をもたらすという理由によってこの進路を唱道する者があり、事実、個人的に私にこれをいった人もある。フランク・サイモンズは戦争の危険をほとんど確実なものとして力説した。この一派によると、米国は極東における各種権益を放棄して、将来の戦争の危険を除いた後でも、楽に暮らして行くことが出来るのだから、大して役に立ちもしないことに骨を折る必要はないのである。
これにかわる方策は、極東における米国の正当な権利と権益の維持を、喧嘩腰でなく、さりとて弱きには出ないで固執し、また固執し続け、実際的である範囲内で、これら権益の順当な発達を、建設的に、進歩的に、支持することである。
ワシントンの現政府がこの第二の方策を取ろうとしつつあることについては、すでにいくたの証拠がある。それでわれわれは引上げの仮説をすて、米国政府は極東における米国の正等な権利も、所属権益も、機会平等の無差別権利も、健全なる商業の発達も、決して法規する意志は持っていないものとして、将来の見通しを調べてみよう。
この二番目の、そして論理的な方策を行うに当たって、米国が関する限り、善隣政策にそむくものは何物もあってはならず、またある必要もない。極東におけるわが国の正当な権益を支持しようという決心は、そのため日米間に、時々起るに違いない摩擦を、最小限度にとどめることを目的とする一方、主義としては何を犠牲に供することもなく実行に移すことが出来、また実行に移されなければならぬ。
この政策をその日その日施行して行くことは、時として微妙な、常に大切な、外交事項となる。非常に多くが、米国が直面しきたった、現に直面しつつある、また将来も直面するであろう各種の問題を、どんな手段で、またどんな方法で扱うかにかかっているからである。著しい劣等感から生れ、同様に著しい優等感の衣をまとう日本人の超敏感性は、空威張と盲目的愛国心と外人嫌悪とに組織された国家的宣伝をともない、ある紛争を処理する手段と方法を、紛争そのものにくらべると、まるで釣合がとれぬほど、法外に意味が深く、重大なものにする。わが政府がこの事実をよく知っていることは、成立以来当大使館によこした訓令が十分示しており、われわれもまたその訓令にしたがい、必要な時には常に上述の考えを持って自発的に行動してきた。
しかしわれわれのその日その日の外交の背後には、国家的準備に表示され補強された全国的支持という、最重要な因子が横たわる。この準備の基礎要素は、主義として現在の海軍力比率を維持し、日本に関する限り、事実上これらの比率をやがて完成し、維持することにあると私は信じる。かかる背景を持ち、かかる背景によってのみ、われわれはわれわれの主張が傾聴され、あるいはそれが有利な結果を引起すだらうとの自信をもって外交を遂行することが出来る。新聞の報道によると参謀総長ダグラス・マックァーサァ将軍は最近「陸海軍は実力的であることによって、政治家の平和的言質に重要さを加えるが、危機がさしせまったとき夢中になってそれを建造しようとすることは、攻撃を挑発するに止まる」といったそうである。われわれは戦争のためでなく平和のために完全な準備を必要とする。
日本に住んでいない人々にとって、この国の現在の感情を感知することは困難である。米国の一上院議員は最近、将来の戦争を避けるため、日本に同意を与えることを勧めたと伝えられる。極東で米国が行うべき一般的政策に関するこの議員の意見は何であるにせよ、彼はこのような声明が日本に立場を強くし、拡張論者の攻撃的野心に筋金を入れる点で、どんなに有害なのか、理解していないのだろう。日本の新聞はいうまでもなく、有名な米国人のこのような声明を取上げ、大々的に扱うことによって、米国の平和主義分子は圧倒的に強く、終局的には政府の政策と行動を左右するとの日本における一般的信念を堅固にする。こういうことになると、われわれの外交的抗議がコケ威しで、それが履行されることを恐れずに無視してもいいのだと解釈する一般的傾向が現われてくる。
この上院議員の意見を分かちあう人たちが、日本でしょっちゅういわれ、また書かれていること−すなわち日本の天命は世界を征服して支配すること(原文のまま)と、陸海軍人のある分子や愛国団体や全国にひろがるとくに熱烈な国家主義者がほとんどあからさまに抱いている拡張的野心を実現させることにあるという議論を、聞いたり読んだりすることが出来たら、役に立つだろう。彼らの目的は、まず通商的支配を、ついで優位の政治的勢力を、中国、比島、海峡植民地*1、シャム、蘭印、沿海州、ウラヂオストックで、朝鮮と満州でやったように順々に占めて行き、その合間々々に一と休みして地盤を固め、邪魔者が外交なり武力なりによって排除されるや否や、次の手を打とうというのである。多数の物がかかる大帝国の夢を持ち、陸軍と海軍とが東京政府の穏健な制御の手綱をひきちぎって突進することができる(これは吾人が満州の事件で十二分に証拠を見せられ、疑いもなく現存する危険だ)この際、もし米国が条約上の制肘、あるいは米国の権益、いや財産それ自体を保護する国際的礼譲の確実さを信頼せねばならぬとしたら、われわれは不埒にも昼寝をしていることになる。
オランダ公使パプスト将軍は長年日本にいた、鋭い、合理的な外交官だが、私と内密に話をしていて、日本の海軍は愛国敵好戦的の熱にうなされているばかりではなく、国民の手前、陸軍のやったことに劣らじと、それがどんな結果を引起すかに頓着なく、一旦緩急あらば、いや、如何なる時にでも、突然グアム島を襲ってこれを占領することが完全にできるといった。
私はこんな気違いじみた行為がいま取られるとは思わない。しかし陸軍が満州でやったことは、条約による権利や国際礼譲の点から見れば、気違いじみていると判断されるべきであった。重要なのは、現状にあって、又将来にも続くであろう状態にあって(たとえ日本歴史を通じて好戦的の振子は、強烈と一時的弛緩との周期的の動きをもって左右に振れてきたとはいえ)この国の軍は政府の制御的支配を振り切り、愛国心の誤った考え方から、国民的ハラキリともいうべきものをやってのけることが出来るという事実である。
日本人が日本は東亜の「安定勢力」であり「平和の守護神」だという時、彼らが考えているには、やがて東亜の商業を完全に支配し、ある人々としては政治的に支配する「日本的平和」なのである。斎藤大使が、日本は平和のこの概念を維持するために準備されるだろうといったと、最近のフィラデルフィア・ビュレティンに報道されたのは、引用の誤謬かも知れないが、今日の日本人の多くは、そのとおりのことを考えているのだ。日本には主として軍の宣伝によってつちかわれた空威張の機運があり、政府の中の穏健思想が国家的自殺に走ることに対処する能力を持っていることを立証せぬ限り、この傾向は、数年間、あるいは数世代間に、日本をどんな極端なことに引張っていくか分からない。
かかる制御の効力は、いつも覚束ない。政府に対する陰謀は絶え間なくくわだてられている。一例として、歩兵第三連帯の若手将校若干と陸軍士官学校の生徒数名が、十一月二十二日、牧野伯爵その他数名の高官を暗殺しようとしていたことが発見され、その後数日間、生徒達は士官学校構内に拘束されたということを聞いた。また特別議会の発会式に政治家を襲うという五・十五事件の二の舞も発覚し、蕾の内に摘みとられたという、かかる陰謀は軍事的独裁の構成を目的とするものである。もちろんこれらの噂を立証することは不可能だが、これは盛んに宣伝され、まったく火がないもになら、こんなに煙が立つわけはない。
私はもっと多数に米国人が、なにも知らない問題を学究的に論じて、今までよりもはるかに強くなっている軍部や極端論者に弾薬を提供するかわりに、日本に来てここに住み、そしてこの情勢の真の潜在的危険を徐々に理解するようになればいいと思う。一九三一年以来、表層の真下に横たわっている自由主義思想の大群は、ちょっとした国外からの助成があればすぐ表面に現れ、支配力を握るほど強いという考えは、全然間違いである。自由思想は存在する、だがそれは口がきけず、大部分無能力であり、十中八九、しばらくはこのままだろう。
こういってくると、当大使館にいるわれわれが、ある種の「反日」心理現象を発達させつつあるような印象を与えるかも知れない。だが、それは違う。人間はある家族の一員を嫌い、あるいは彼と一致しないことはあっても、そのため必然的にその家族全体に敵意を持ちはしない。私にとっては、日本人の中の最善のタイプである者よりも、さらに立派だといえる人は世界のどこにもいないと思える。私は廣田をその一人として認めたい気持がしている。もし彼が軍部に邪魔されることなく、事をなし得たら、彼はこの国をもっと安全な、公正な水路に導きいれていくことと信じる。
このような友人の一人が、いつだか悲しそうにいった。「われわれ日本人は常に一番悪い方の足を踏み出し、また自分の考えを十分説明して他人に分かってもらうには、あまりに誇りが強い」と。日本人の外交は過去においても現在にあっても、小手際である。彼らは習慣的にまずい手を打つ。「不手際外交」に対しては、軍部や極端論者が主として責任を負うべきだが、一体日本人は民族的に口をきくことをしようとせず、言葉よりも行動の方が気楽なのである。だが軍や極端論者は、日本と諸外国との関係を知りもせず、関心ももたず、大きな害をなすのは軍部の好感をむかえて国内での威信を高め、将来の経歴を保証しようとする白鳥、天羽その他官吏の欲望である。彼らがしばしば、本当に事を行うに先立ってぼろを出してしまうのは、われわれにとって有難いことなのかもしれない。
だが、これらのことすべては、われわれを日本のよりよき分子に対して非同情的にでもしなければ、如何なる意味においての「反日」的にもしはしない。日本は自家撞着と極端、大なる叡智と大いなる愚鈍の国であり、その最も適切な実例は、海軍会議に関係して見られる。即ち海軍問題の権威者や新聞が、日本は比率以下の海軍では沿岸を守ることさえも十分に出来ないと、堂々の陣を張っている一方、新聞と一般国民とは、記事で、演説で、会見談で、今日の日本海軍は米国海軍よりも強く、戦争が起れば易々と米国を負かすことが出来ると、勇壮にも誇っていた。こんな雰囲気の中で外国人が偏見に捕らわれぬ、釣合いのうまくとれた意見を持ち続けることは実に甚だ困難である。当大使館にいるわれわれは、この努力をなしつつあり、(成功していることを私は希望するが)同時にわれわれがなし得ることの全部は、船が危険に揺れるのを防ぐことである。建設的な仕事は、現在のところ不可能である。われわれの努力は破壊的な影響力を挫くことに集中されている。
以上に述べたすべてからして、私はこの情勢に潜む危険と、それに対処する米国の国家的準備の重大さとを繰返して力説することを、いささかも躊躇しない。国家として米国は、軍備制限と縮小の国際的努力を指導してきた。われわれがこの運動の進歩を希望したのだが、華府会議後十二年間に起った世界的事件は、かかる進歩に効果的な地盤を与えていない。われわれが、極東における「日本式平和」−それは日本が思いつき、日本がかくの如きものなりと解釈するこの運動すべてを含むものだが−に裏書きする用意をもっているならば別問題だが、さもなくば米国はその海軍を急速に条約にきめられた勢力まで建造し、もし華府海軍条約が消滅するならば、あるいは消滅した時には、戦争の危険を封じ、減少させる平和時の保険として、金額の如何を問わず、対日現行比率を維持すべきである。同時にそれらの多くが日本の新聞に伝えられる傾向を持つ、合衆国内における強硬外交論者の好戦的論議と平和主義者の敗北的論議とを、ひとしく避け、または相殺するあらゆる適宜な手段がとられなくてはいけない。前者は米国に対する一般的感情を燃え立たせ、後者は米国が弱く、不決断で、コケ威しをしているという印象を与えるからである。
私自身の意見は、当て推量かも知れないが、日本は如何なる事情によっても海軍軍備競争を招くことなく、比率に関する米国の立場が不動であることを見出した以上、華府条約が消滅するまでの二年間か、あるいは米国現在の建艦計画が完成するまでに、これ以上の提議がまさにきたらんとするだろうというのである。合衆国が事実上その海軍建艦計画を条約限度まで完成したとき、その時初めて日本は米国が真剣であることを理解し、妥協を求めることと信ぜられる。日本の海軍政策は、合衆国が決して条約限度まで建艦せぬだろうという前提に基づいて系統だてられたものと信ぜられるが、過去二代政府の海軍政策と、合衆国における平和主義者の表面上の勢力と、近くは経済不況の結果とは、この前提を強いものした。
日本が孜々*2として、事実上はとにかく、主義として合衆国と同比率を獲得せよとの世論を起し、また刺激して背水の陣を布いたことは真実であるが、日本の指導者達は巧妙な宣伝によって世論を新しい情勢にむくように作り直すことについては大名人である。一度同じ比率が不可能であることを確信すれば、日本は諸事情が建艦競争を不可能とするような情勢にまで推移することを許すわけはあるまいと思う。一九三五−一九三六年の予算は2,193,414,289円。その中の約47パーセントが陸海軍費。概算せられたる一九三六年の国債は9,880,000,000円。これは内閣統計局が一九三〇年の国家収入を計算した額、即ち10,635,000,000円とほとんど匹敵する。しかるに満州での経費は莫大なものであり、国民はすでに重税を課せられ、多くの社会層が極度に救済資金を必要とする現状にある日本が、どうしたら米英両国と同じ海軍比率を維持する計画に乗り出しえるか、これは見当がつかない。
一度明確に米国の立場を表示しさえすれば、後は日本側がどう出るか待っていればいい。私は日本側から何かの提議がなされるものと信じている。
ロンドン海軍会議の予備会談を東京にいて評価し得る限り、私はこのことから発生した最も大切でしかも貴重な結果は、極東で米英両国がより緊密に協力しようとする傾向が明らかに見えたことだと思う。もしこの両国が将来、またしても日本の「不手際外交」の直接の結果として、日本の条約による権利の誇示と東亜を支配しようとする無制限な野心とに、強固に結ばれて対立することが出来るとすれば、その将来はすべての人類にとって明るい局面を見せることであろう。
シオドール・ルーズヴェルトは「優しく話し、大きな棒を持っているべし」という政策を明言した。極東における米国の外交が有利な結果を得ようとするならば、またわれわれが日本との何時か起る戦争の危険を最小限度に減少しようとすべきならば、ルーズヴェルトのこの政策こそ、唯一の路である。こんなふうな戦争は、とても有りそうでないかも知れず、また事実そうなのだが、しかしその幽霊はいつもその辺をウロウロしているのだし、また当分の間はそこら辺りにいるだろう。それをわれわれの計算から除外してしまうことは、犯罪的の近視であり、それを避ける最善の方法は、軍備を充実することである。軍備は日本における好戦論者や軍部や愛国者や超国家主義者が、合衆国の「挑発的方策」を云々しようがしまいが、把握し了解し得るひとつの冷酷な事実だからである。ソ連大使の話によると、ある有名な日本人が彼に、日本の沿海州攻撃を避けるもっとも重大な因子は、シベリアとウラヂオストックをソ連が最も強固に軍備することだといったそうである。私はこれは本当だと思う。そして再びいうが、また何度でも繰返して、米国は極東におけるあらゆる不測の出来事に対抗すべく、十分準備しておくべきことを強調する。
これらの意見を私が本国政府に伝達したことはいうまでもない。