日本の劇場での一夕

晩の6時、われわれはビンガム、パーソンズの両名と、大谷氏*1の客として歌舞伎座へ行った。大谷氏はこの国における最大の演劇会社の社長で、全国中の30以上の劇場と450を越す映画館とを持っている。歌舞伎座では「桐一葉」と「鏡獅子」を見たが、桐一葉は有名な歌右衛門が出演し、アリスはこの俳優を以前東京にいた時に見たことがある。彼は老女の役をつとめた。二番目のでは日本でも特に優れた舞踏家俳優の菊五郎が、彼の驚嘆すべき獅子舞を踊った。

われわれは大いに感心した。歌舞伎座は日本で一番立派な劇場であり、そして出し物は最高の劇と舞踊であった。劇場は非常に大きく、空席はただの一つもなく、舞台は私がどこで見たものよりも広い。舞台面と衣装とは絢爛を極めたものである。女の役はすべて男優がやったが、これがまた大したものである。菊五郎と彼の傑作ともいうべき鏡獅子に対しては、全国的崇拝に近いものがある。彼はこの舞踊を師匠の有名な団十郎から習い、さらに高度なものにしたといわれる。団十郎は「鏡獅子」ほどむずかしい踊は知らないといった。かかる偉大な俳優にほとんど誰でも何代かにわたる彼らの先祖から芸を伝承しているので、菊五郎は彼の家系の六代目である。獅子の踊の全部を通じて菊五郎の顔には表情のひらめきというものがまったく見られず、舞踊の意味はすべて彼の頭と手と身体の動作によって示されたが、若くて美しい娘を表示した時の菊五郎の頭の動作は、まさに典雅そのものであった。このような古典舞踊の約束は、われらのそれとは著しく相違しているので、そこに示される芸術の偉大さを即座に把握することは不可能だが、除々に分かってくる。日本人にとっては、これは神聖ともいうべきものなのだ。

獅子舞の筋は極めて簡単である。将軍の居城の前で年中行事である獅子の踊をするべく選ばれた美しい腰元は群集を前に怖気づくが、しばらくの間すすべられてから踊りはじめる。彼女は獅子の頭を手に持ち、一緒に踊りに来た二匹の蝶とともに、しとやかに舞う。蝶は第一場でっは長い棒の先に附いた機械的のものに過ぎないが、その後二人の美しい獅子になる。この二人が腰元の心をかき立て、獅子の心に憑かれた彼女は、最後には獅子そのものになってしまう。ここで彼女は見物席にある橋のようなものを通って舞台に現れるのだが、目を奪うような金色の衣装を身につけ、長くて白いたてがみをかぶっている。そして長唄の音楽が荒々しく彼女を駆り立てるにつれて、すさまじい最後の獅子の踊を演じる。長唄のオーケストラは十八人ばかりの和服を着た男性が舞台の後方に観客に面して坐って演奏するのだが、その半数が歌い、他の半数は管絃器や太鼓で音を立てる。われわれ西洋人の耳にとって、長唄の音楽は、特に甲高い笛が間断なく三味線や歌声の主旋律や曲に、まったく反対に吹き鳴らされる点で、不協和音そのものである。一時間も聞いていて、私は本格的な頭痛に襲われたが、しかもこの音楽が舞踊の効果を助けたことはたしかである。観客は夢中になって興奮した。私にはその気持ちがよく分かる。ついでにこの笛は、主役が登場するか退場するか、あるいは筋の山が近づきつつあることを知らせるためのものとされている。

幕間に大谷氏はわれわれを舞台脇に案内し、衣装をつけたままの大菊五郎に厳かに紹介し、一緒に写真をうつした。その後大谷は、われわれがまるで予期しなかったことだが、劇場の食堂に連れて行き、重役二人とともに日米両国旗でかざられたテーブルで晩餐を出した。私はワシントンに着いたばかりの大使が、こんなふうにして大興業者からもてなされることなど想像することも出来ないが、日本では当たり前のことらしい。それに米国にはこんなに国をあげて大事にする古典劇や古典舞踊、あるいは歌右衛門菊五郎のように全国的の尊敬を受ける演技者に比類されるべきものは、何もないのである。番組には六つの異なる劇があり、午後三時から九時あるいは十時までかかるのだが、われわれはその中で最もよく、また最も人気のあるものを二時間ばかりにわたって見物したのである。人々がこれらを大いに好むことは良く理解できる。われわれのような初心者でも、心から感激して劇場を出た。

日本が満州国を承認することが恐らく近くあるだろうという私の電報に答えて国務省は今日、議会が承認を可とする決議をしたという新聞の報道を確認するや否定するやと問い合わせてきた。これに対して私は、衆議院は決議案を通過させたが、これが政治的激発以上の意味を持つ徴候は何もなく、また政府がこのようなことをたくらんだとか、それによって動かされるだろうというような形跡も見受けられないと返事した。なお私はネヴィルと有田*2との非公式会談の内容をつけ加えた。有田は日本に政府が軽率な行動をとることはなく、内田伯爵*3はいま満鉄の仕事を片付けに満洲へ帰りつつあるので、七月までは外相の位置につくまいが、決して性急に事をはこびはしまいといったのである。

私自身がこの問題について外務省と話し合うことは、すくなくとも現在のところ、賢明ではあるまいと思う。われわれとしては、日本が満洲国を承認するという可能性だにも、公式に認むべきではない。それは終極的の撤兵についてわれわれに与えられたいくつかの保証を、事実上無効にすることになる。だが私は、何が起こりつつあるかを知っていなくてはならず、そこで私はネヴィルにそれとなく、非公式に、ほかのことと一緒に、新聞の報道がまちまちであることにひっかけて、この問題をさぐることを頼んだ。

*1:大谷竹次郎。松竹合名会社(当時)社長

*2:有田八郎。当時外務次官。

*3:内田康哉伯爵。1932年7月8日外務大臣就任。6月の時点では満鉄総裁。