日本の絹工場訪問

日商務官バッツ夫妻を同伴して、アリスとエルシイと私とは、東京から一時間と十五分の距離にある大宮の片倉製糸場へ、自動車を走らせた。この訪問は前から準備されていたので、人々は大かがりな歓迎をし、大宮市長、警察署長、副社長の伊丹氏を含む同社の高級社員らが、威儀を正してわれわれを出迎えた。われわれは繭の生長、それを熱湯にひたすこと、繭から絹糸をひきだすこと、綛糸*1に組むこと、最後に送り出すために「ブックス」と呼ぶ束にまとめるまでの全工程を見たが、日本の絹の総額の92パーセントは合衆国へ輸出される。繭から糸を引き出すのは最も興味の深い仕事で、長い機械の行列があり、何百人という娘が同時に廿の機械を見張り、五つの繭からでてくる糸が一つの穴を通って一撚りの糸になる。繭から引き出される意図は、肉眼には−すくなくとも馴れていない肉眼には−細すぎて見ることができない。

娘たちは華氏百五十度の熱湯に手をつけて、終わりになった繭を代えたり、切れた糸を結びつけたりしなくてはならぬので、可哀想に、指は相当痛んでいる。だが、仕事は恐ろしく速く、何をしているのか馴れぬ者には見当もつかない。仕事場には拡声機がいくつかあって、娘たちはしょっちゅう音楽を聞き、辛い仕事が愉快に行われるようになっている。われわれが工場にいた時、拡声機が突然、米国国歌を大きな音でやりだした。これはわれわれの名誉のためにやってくれたので、われわれが停止し、不動の姿勢をとったことは申すまでもない。ただ困ったことに、このレコードは途方もなく大きなものだったらしく、あの崇高な歌が三度続けて繰返され、それが済むまで私は動くことができなかった。

*1:かすりいと